すぎやま氏「今年は『ドラゴンクエストIX』の作曲がメイン」
2月26日に開催された金管五重奏の演奏会についてのレポート記事。
何やら、楽しそうな内容だったみたいですね。
こういうのを平日(しかも月曜日!)にやられてしまうと、会社勤めの者としては悔しいやら残念やらです。
で、この記事では演奏会ですぎやまこういちさんがお話になったことについてもいくつか書かれていました。その言葉から、ゲームミュージックに関係しそうな辺りを取り上げて、少し語ってみたいと思います。
すぎやま氏は金管五重奏について、「オーケストラとは違った楽しさがあり、ゲーム音楽に近いものがある。『ドラゴンクエストI』は2トラックだし、スーパーファミコンは5〜6トラック。プレイステーションではオーケストラに近づいたけど、それでもオーケストラには及ばない。(そういった意味でも) 金管五重奏はゲーム音楽の基本に近い」とその魅力を説明した。どうやら、すぎやまさんにとってゲームミュージックは「音色の少なさ」がひとつのキーになっているようです。まあ、オーケストラの楽譜を書ける人が初めて作ったゲームミュージックが2トラックのドラクエの曲だったわけですから、やはり音色の数の制限というのはゲームミュージック制作の上で強く意識の中にあるのでしょうね。
言い換えると、現代のゲームミュージックは本物のオーケストラに比べればまだまだ構成要素が少ない音楽である、ということでしょうか。普段からオーケストラを相手にしている方ならではの、スケールの大きな音楽構成力を感じさせる言葉です。
(ドラゴンクエストIXについて)同氏は「プレイステーションでやっていたときに比べニンテンドーDSと言うことで音色は少なくなる。でも基本はいい曲を作ること。ファミコン用ソフトでも作っていたんだし」とハードスペックについては気にしていないという。ここでもやはり「音色の少なさ」を意識してらっしゃるようです。
やはり、「少ない音色で、いかにいい曲を作るか」というのが、すぎやまさんのゲームミュージック観であるように見受けられます。
と、ここまで書いて思ったのが、ゲームミュージックに対するアプローチのベクトルには2つの方向があるんではないか、ということです。
ひとつはすぎやまさんのように、何十という楽器を相手にできる音楽理論や構成力を持った人が、数トラックの音楽(ゲームミュージック)を作る場合。これはいわば、「凝縮」するベクトルです。
かたや、ハードの進化に従って扱えるトラック数が増えていく経験を経てきたコンポーザーがゲームミュージックを作る場合。こちらは、いわば「拡張」してきたベクトルです。
どちらのベクトルの到達点にもそれぞれの良さはあります。
ですが、音楽としての“安定感”というのは、やはり「凝縮」した側に分があるように思えます。すぎやまさんが作曲されたドラクエシリーズの音楽が年代を超えて幅広く支持されているのは、国民的なタイトルである一方でこうした音楽の“安定性”が認められているからなのではないでしょうか。
片や、PSGに始まり20数年間に渡って進化してきた「拡張」の歴史を経たゲームミュージックは、今「拡張」の段階を終えて、拡がった故の“薄さ”や不安定感をようやく埋め始めているところなのかもしれません。
ウィキペディアのゲームミュージックの項目では、現在のゲームミュージックの問題点として「音楽理論への配慮不足」を指摘していますが、これからのゲームミュージックにはそういった理論面などを取り入れた“安定感”もひとつ考慮していく必要がありそうな気がします。
もっとも、(ゲームミュージックを含む)エレクトロニカをつかまえて音楽理論を金科玉条のように振りかざすのは馬鹿げたことだというのも理解していますが……。
ちょっと話がそれました。
要するに、
・「拡張」型で発展してきたゲームミュージックは時に音楽として脆弱な面がかいま見えることがある
・そうした脆弱面を見据えたときに、「凝縮」型で作られたゲームミュージックは「拡張」型に対して何らかの示唆を与えるのではないか
ということなのです。
表現の制約がなくなったと言われるゲームミュージックも、オーケストラに比べればまだ及ばないとすぎやまさんは言います。
そういったより大きな視点、「凝縮」する視点からゲームミュージックを捉え、生み出していくことは、ゲームミュージックの魅力を再構築していく上でひとつのポイントになるのではないかと思う次第です。