2007年07月04日

私がゲームミュージックを愛する理由、またはゲームミュージックと劇伴の決定的な違い

どうも、再開すると言いながらまた放置の日々が続いておりました。

私がこのブログを休んでいた理由は、もちろん忙しかったということもあるんですが、実を言うともうひとつ大きな原因がありました。

それは、自分にとって「良いゲームミュージック」とはどういうものなのか、という基準がある日突然はっきりとわかってしまったからなのです。
そして、その基準に照らし合わせると、昨今のゲームミュージックは(自分にとって)軒並み評価の対象外になってしまうという悲しい事実に思い至り、私はゲームミュージックから距離を置かざるを得なくなってしまったのです。

私にとっての「良いゲームミュージック」とは何か。それは、ゲームミュージックと映画音楽等いわゆる「劇伴」との決定的な違いと大きく関係しています。

その答えは、気づいてみれば意外と当たり前のことでした。
ここで、ゲームミュージックなブログ・Ver.FC2さんの記事を引用させて頂きます。
ゲームシナリオとテレビや映画の脚本は違うということ
 私が思うにゲームの脚本とアニメやドラマの脚本というのは、似ているように見えて全く異なると思います。というのは、テレビや映画は基本的にユーザーは「観る」だけなのに対し、ゲームの場合、ユーザーは「(操作という)干渉を入れる→観るだけではない」からです。
 テレビや映画の場合、登場人物への感情移入がいるとはいっても、所詮は視聴者は客観的第3者、3人称のような視点から見るのが普通です。しかしゲームの場合はほとんどは「動かすキャラ」というものが存在し、操作するプレイヤーはそのキャラの視点で動かすわけですから、人称もそのキャラにとっても1人称になります。(もちろん例外もありますが)
この考え方は、音楽にも当てはまるのです。

テレビや映画の劇伴は、どんなにムードを盛り上げるといっても、所詮それはその作品の登場人物や情景のためだけに用意されたものです。音楽が対象にしているのは作品の世界であって、それを観る(聴く)者からすればあくまで第三者的な「鑑賞」の対象でしかありません。

ですが、ゲームの場合、プレイヤーはゲームを外部から観る第三者的な視点を持ちながら、ゲームの世界の中で能動的に行動する一人称の存在にもなります。その場合、そこで流れる音楽はゲームの世界のための音楽でありながら、そのゲームの中で行動するプレイヤーにとっては自分自身のための音楽にもなるのです。

言い換えれば、ゲームミュージックにはゲームの世界を彩る役割と、ゲーム内で主たる存在であるプレイヤーの心情をも彩る役割があるということになります。
鑑賞の対象である一方で、それを鑑賞するプレイヤーごと包んで盛り立ててくれる音楽。それがゲームミュージックなのです。

まとめると、劇伴は三人称の音楽(“its music”)であり、ゲームミュージックは三人称+一人称の音楽(“its & my music”)である、と言えるでしょう。これが、劇伴とゲームミュージックとの決定的な違いです。

そして、ここまで思い至った私はようやく理解しました。この一人称の部分があるからこそ、私はゲームミュージックを愛しているのだと。
架空の世界の音楽でありながら、現実にいる自分をその世界に取り込んで様々に盛り立て楽しませてくれる、他ジャンルに類を見ない特殊な役割を持った音楽が、私は大好きなのです。

逆に言うと、その一人称的な部分を持たない「ゲームミュージック」は、どんなに美しい音楽であっても、私から見れば色あせた魅力の乏しいものに思えてしまうのです。

……と、そろそろ時間がなくなってきました。
この続きは、また次回に。
posted by まれいん at 01:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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