前回、私がゲームミュージックを愛する理由は、ゲームミュージックに“一人称の部分”があるからだということをお話ししました。
それが私にとって「良いゲームミュージック」を判断する大きな基準のひとつであり、一人称の部分がないゲームミュージックは、私から見るとどんなに美しい音楽であっても魅力の乏しいものに感じられてしまうこと、昨今の作品はとみにそういう傾向があるので(あくまで私にとっては)軒並み評価の対象外になってしまった……というところまでお話しできたかと思います。
とはいえ、ゲームミュージックのどの部分をもって“一人称”と称するのか、その辺は非常に感覚的なものであって、具体的にこの曲のここがこうで、という風に説明することが難しい面があります。
なので、今回はあえてその一人称の部分が感じられない(と私が思う)作品を採り上げて、それがどういうものであるかを逆説的に述べてみたいと思います。
採り上げる作品は、比較的最近のもので、音楽的には非常に優れていてリスナーの評価も高いもの……「旋光の輪舞」です。
まず最初に断っておきますが、「旋光の輪舞」は音楽としては非常にクオリティの高い作品です。卓越した表現力や旋律の美しさは全くもって素晴らしいもので、作曲者の渡部恭久さんの技量の高さには改めて敬意を表したいと思います。
ですが、サントラを全て聴き終えた後で、私は自分がどこかに置いてきぼりにされたような、言いようのない寂しさと空しさを感じたのでした。
そしてその後に「(旋光の輪舞の)キャラ設定とストーリーをどこかで調べなきゃな」と思って、そこではたと気づいてしまったのです。「そうじゃないだろ」と。
「旋光の輪舞」の楽曲は登場するキャラクターごとに(2曲かそれ以上)割り当てられていて、渡部さん独特の思わせぶりな曲構成も相まってか、それぞれのキャラクターのストーリーについて深読みをしたくなるような奥の深いものに仕上がっています。
だからこそ、私も聴き終えた後に「キャラ設定とストーリーを調べなければ」と思ったわけなのですが、ここに大きな違和感の正体がありました。楽曲を聴いてキャラクターやストーリーに興味を惹かれた一方で、それが「ゲームミュージック」であったにも関わらず、私は「旋光の輪舞」というゲームをプレイしたいとは微塵も感じなかったのです。正直なところ、このサントラと設定資料集さえあれば、実はゲームなんかプレイしなくてもいいんじゃないのか……とまで思ってしまいました。
(ちなみに、私は実際に「旋光の輪舞」をプレイした経験があります。念のため。)
これは、ある意味作曲者の勝利とも言えるでしょう。聴いた者にここまで思わせるということは、それだけ音楽がキャラクターを見事に描き出しているという証なのですから。
ですが、あくまで私見ですが、これはゲームミュージックとしては失敗作です。なぜなら、それぞれの楽曲がキャラクターを完璧に描き切ることに終始しているがゆえに、そこにゲームのプレイヤーが心情的に入り込む余地が全く存在しないからです。
こういった楽曲の下では、プレイヤーはキャラクター達が織りなすストーリーを眺める傍観者であり、ステージを進めるための道具でしかありません。キャラ萌えとか、そういう方向での共感を集めるには最適の音楽ではありますが、プレイヤーにとっては絶対に「自分の音楽」にはなり得ないのです。
言い換えれば、個々の楽曲は各キャラクターを立てるために存在するものであって、プレイヤーが「旋光の輪舞」というゲーム全体が作り出す世界に接触し入り込むきっかけを与えてくれるものではないということです。
私がサントラを聴いた後に寂しさと空しさを感じたのは、音楽が作り出す“閉じた”作品世界との間に(プレイヤーとして)壁を感じてしまったからでした。
作品世界を外から鑑賞することはできても、その中にプレイヤーが入り込むことができない。これがすなわち、“一人称”を持たないゲームミュージックということなのです。
なお、しつこくも繰り返しますと、音楽として鑑賞する分には「旋光の輪舞」の楽曲は素晴らしい作品です。「良い音楽」として聴くのであれば、充分に価値があると思います。
ですが、「良いゲームミュージック」であるかというと、上記のとおり私個人としては大きな疑問符をつけざるを得ないのです。
■まとめ
このように、“一人称”の存在の有無によって、私の中では「良い音楽」と「良いゲームミュージック」の間に明確な境界線ができてしまいました。世間的には評価の高いゲームミュージック作品でも、そういう基準で聴いてみると「良い音楽」止まりで終わっていると感じられる作品は決して少なくありません。というか、最近の作品はほとんどが「ただの音楽」か「良い音楽」程度で、「良いゲームミュージック」だと思わせてくれるものは非常に少なくなったように思えます。
では、なぜそういう状況になってしまったのか。次回はその辺りのお話をしてみたいと思います。
ああ、でも次の記事は「EXTRA」のレポートになるかもしれません。あしからず。
2007年07月06日
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設定資料集の感想
Excerpt: 対戦型ビジュアルブックロストワールド出版社:ホビージャパンサイズ:単行本ページ数:1冊(ペ発行年月:2007年03月この商品の関連ジャンルです。 ・本> エンターテインメント> ゲーム&..
Weblog: ゲームの感動
Tracked: 2007-08-04 20:08



私自身は、
プレイ以前なら、
単体で聞いてそのゲームをプレイしたくなったらいいゲームミュージック
プレイ以後なら
そのゲームを思い出したときにゲームの場面、プレイ当時の記憶と同時に浮かぶ音楽があれば、それがいいゲームミュージックといった程度の考え方です(簡単ですみません)
最近どうしても感じてしまうのは、詰め込める音楽の量、質が上がるにつれてゲーム音楽を製作される方が風呂敷を広げすぎてしまって、一つ一つが薄くなってしまっているような感覚です。
以前なら、クリアするくらいまでプレイしたRPGとかで一つとして音楽が記憶から戻ってこないなんて事はありえなかったんですが、、、。
個人的には、どんな分野であれ、芸術というものの多くは決められた範囲の中で限界に挑戦するからこそ飛びぬけたものが生まれると思っています。
表現できる範囲の広がりに、ゲームミュージックという文化の成熟が追いついていないのかもしれない、
などと考えてしまいました(笑)
私の基準も、そうてんさんとほとんど同じものだと思います。
ただ、今回の一連の記事では、そこから一歩踏み込んで「どうしてゲームをプレイしたくなるのか」「どうして記憶に残るのか」というところまで追求したいと思っています。そのために持ち出した言葉が「一人称」なのです。
「ひとつひとつの曲が薄くなってしまった」という点についても、おそらく「一人称」と同じ理屈で説明ができるのではないかと考えています。
加えて、音楽の質の変化はゲームの質の変化とも関係があります。一概に音楽制作側の表現の問題だけとは言い切れない部分もあるのです。
表現の幅が拡がるなかで、より良い音楽を追求する姿勢が失われてきた、という指摘にもたしかに一理あります。ですが、おそらく事はそこだけにとどまる問題ではないと思われます。
この辺、話し始めると長くなってしまうので、次回以降の記事で書かせて頂きます。
半端なコメントですみません。